膳について
創世記 1章1-8節 より
1 はじめに神は麺と汁とを創造された。
2 汁は形なく、むなしく、器が淵のおもてにあり、神の霊が油のおもてをおおっていた。
3 神は「ラーメンあれ」と言われた。するとラーメンがあった。
4 神はそのラーメンを見て、良しとされた。神はそのラーメンとその他とを分けられた。
5 神はラーメンを昼と名づけ、替え玉を夜と名づけられた。完飲となり、また注文となった。第一日である。
6 神はまた言われた、「油の間におおぞらがあって、油と油とを分けよ」。そのようになった。
7 神は麺の硬さを造って、おおぞらの下の麺とおおぞらの上の麺とを分けられた。
8 神はそのおおぞらを生と名づけられた。完飲となり、また注文となった。第二日である。
まとめると
1日目
神は麺と汁をつくられた(つまり、麺とスープを最初に創造した)。丼がある中、神は光ラーメンをつくり、ラーメンと替え玉ができた。
2日目
神は麺の硬さ(茹で時間)をつくられた。
この後は次のように続く
3日目
神はトッピングを作り、チャーシューが生まれ、トッピングにニンニクをはえさせられた。4日目
神はお冷と割り箸とレンゲをつくられた。
5日目
神はナルト(かまぼこ)と煮卵をつくられた。6日目
神は豚骨スープという名前をつくり、神に似せた膳をつくられた。
7日目
神はお食事になった。
このように膳とは神の化身であり、神が創ったものが豚骨ラーメンである。我々人間は所詮豚骨ラーメンを依代とした、もっと言えば、膳を依代とした儚い存在だと言える。
さて、ここで聡明な読者諸君ならば、ニーチェの「神は死んだ」がどのような意味を表すのか即座に理解できるはずだ。
「神の死」とは豚骨ラーメンの創世者が去ったことを指す。これは豚骨ラーメンではない新たなラーメンの出現を示しているのだ。このような観点からニーチェが非豚骨ラーメンの創始者ということがわかるのだ。
また、非豚骨ラーメンは人間の手によるものであるから本質的にラーメンではないと言える。
インスタントラーメンの創始者、安藤百福はある意味で預言者とも言える。ラーメン神学的観点から言えば最も新しい預言者はムハンマドではないこととなる。
膳とは何であろうか
結局のところ、膳とは我々人間であり、世界であり、ラーメン店である。
『鋼の錬金術師』にもある通り、「一は膳、膳は一」である。これは万物ひとつひとつが膳であり、膳がまた万物ひとつひとつだということを指す。
このことは「神に似せた膳」というセンテンスからどう導かれるのだろうか。
まず、神とはなんたるか考えなければ、神に似たものは理解できないだろう。神とは人知を超えた尊い存在である。これでは抽象的であるから具体例と共にその存在に迫ろう。我々は素晴らしいアニメを見たとき「神」と雄叫びをあげるだろう。優れた芸術には「神が宿る」とも言われる。こうした瞬間に、対象がどうあれ、我々が思わず「神」と口にしてしまうのは、我々が潜在的に「神」を理解しているからだと言えよう。そう、神とは任意の事象になりうるのだ。任意の事象になりうる神によく似た膳もまた任意の事象だということはそうおかしなことではない。かくして「一は膳、膳は一」という言説が妥当なものだとわかった。
膳に「飽きる」とは
ある人物が「最近膳に飽きてきた」と述べた。膳に飽きることはあるのだろうか。
膳は任意の事象ということを踏まえれば、膳に飽きることは「すべてに飽きる」と解釈できる。さて、すべてに飽きるとはどういうことなのだろうか。それはすべての事象を満遍なく体験し、自分の血肉とし、これ以上新たなものを得ないということである。そうしてみれば、膳に飽きる瞬間は存在しえないとわかるだろう。すなわち飽膳者は存在しないということだ。
これまでの膳学者のなかでは上記のような説が一般であった。今回は筆者による飽膳新説を紹介したい。
飽膳者 新(神)説
すべてに飽きるもの、それはすべてを体得したものではないのだ。すべてを創造したものならば、もとよりこれ以上知ることはなかろう。ゆえに、膳に飽きるものとは神そのものだと言える。
反論A
世界は神によって作られた後、神の意志とは無関係に変わっていった。その変化まで「飽きる」ことはないのではないか?
反論Aに対する答えとして、創世記の7日目を思い出してほしい。
神はお食事になった。
これは明らかに膳でラーメンを食べることである。膳とは任意の事象たりえる。それを食すことは任意の事象を食すことになり、それによって神は自分の意志の外で起きたことを理解するのだ。
反論B
それならば、我々も膳を食べているわけで、任意の事象を食すことになるのではないか。
大変鋭い指摘である。事実、我々は任意の事象を食している。しかし、それと任意の事象の理解は果たして同値であるのだろうか。我々は任意の情報が与えられていても、前提となる知識がなければ、それを完全に理解することは不可能である。この「前提」の差こそが我々人間と飽膳者との違いとなるのだ。こうしてみれば、我々は飽膳者となる機会を無限に近く与えられている一方、すべての可能性を無に帰しているととれる。
以上のようにして、飽膳者=神という新説を紹介した。また筆者が先日出会った「膳に飽きた」人は神であった可能性が高い。
おわりに〜我々と膳のあり方
我々は超越的存在、膳を前にしてどのような態度を取るべきだろうか。膳に対する行動、それは神に対する行動と取れる。そう、ただありのままに感謝し、ありのままに麺をすすり、ありのままに替え玉し、ありのままに完飲すればいいのだ。読者に良き膳があらんことを。